プロフィール

カガミルのプロフィール

こんにちは、カガミルと申します。

2021年4月現在の私の状況です。

私は東京大学理科三類(理三)に合格し、東京大学医学部卒業後は医師になりました。

理三についてはこちらの記事をご覧ください。

現在大学で臨床、教育、研究を行っています。

既婚で、男の子が1人います。

投資もしています。投資歴はこの記事をご覧ください。

詳しいプロフィールを知りたい方のために、これまでの半生について書くことにしました。

読者の皆様の中には、理三合格者の幼少期〜中高生時代のこと、特に勉強内容に興味をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。

しかし私はあくまで1人の理三合格者に過ぎず、何か偉業を成し遂げたわけではありません。また私の色々な面が他の合格者にも当てはまるわけではありません。

その点をご理解の上お読みください。

幼少期

私は198X年、会社員の父と専業主婦の母の子として東京で生まれました。兄弟は妹が一人います。なお近い親族に医師はいませんでした。

幼稚園の時のおぼろげな記憶が残っています。園庭で遊んだり、室内でいろいろな作業をしたりしました。

小学校入学前だと思いますが、どこかの教室でひらがなを得意そうに紙に書き、褒められた記憶があります。それは公文式の教室だったのかもしれません。

小学校時代

公立小学校へ

父の転勤により引越しをしましたが、最終的に関西のある公立小学校に落ち着きました。

小学校低学年の頃から習い事はたくさんやりました。記憶にあるだけでも公文式、水泳、習字、ピアノ…定番の習い事を一通りやったという感じです。子供向けの英語教材を少しやりましたが、本格的な早期英語はやりませんでした。また現在は廃刊になってしまいましたが、「科学」と「学習」という月刊誌を購読していました。

スポーツは苦手で勉強が得意な、よくいるタイプの小学生だったと思います。

家にこもってTVゲームをやることも多かったです。

中学受験

小4の時に受験勉強を始めました。我が家では中学受験は当然という雰囲気で、関西で有名なX学園に入りました。なお私の通う小学校では中学受験をする人はごく一部でした。

小4のうちはそれほど負担はありませんでしたが、学年が上がるに連れて勉強時間は長くなり、だんだんきつくなりました。

受験生は志望校を決めるために中学校の文化祭に行き、そこの雰囲気を知ります。私も母に連れられていくつかの中学校の文化祭に行きました。その1つが関西最難関の灘中学校でした。

灘中学校では校門横にある「灘中学校」の表札を撫でると合格できるという言い伝えがありました(ちなみにその隣の「灘高等学校」の表札を撫でると中学は落ちて高校からしか入れないため撫でてはいけないそうです)。

色々な中学校の見学に行きましたし、どの学校にも特色やよさがあると感じました。灘に対しても名門校の伝統と格調高さを感じましたが、関西のトップ校であるという点だけでも憧れがありました。

そして私はこの時、灘中学校の表札を撫でました。

苦悩と挫折

「あわよくば灘」と思っていたものの、残念ながら灘をはじめとする関西の最難関校を狙えるほどの成績は取れませんでした。

私は国語が苦手で算数と理科が得意な理系タイプでした。その算数の実力もまずまずといったところで、トップクラスの人たちにはかないませんでした。算数の最上位クラスにいたこともありますが、そこでの成績は最下位に近かったです。返却されたテストの点を見ては、自分が失格の烙印を押された気がして落ち込んでいました。
国語はもっと悲惨な状況でした。

「受験戦争」という言葉がありましたが、当時の私は受験勉強を「やらされるもの」「辛く苦しいもの」だと思っていました。しかも勉強をしても成績や順位が伸びなかったのでなおさらでした。まだ世間知らずな子供であり、受験勉強の意義がわからなくても仕方がなかったと思います。

あの頃の私は、受験勉強が嫌でした。

とはいえ受験をやめて公立中学校に行きたいという気持ちはありませんでした。高学年の時の担任教師のやり方に子供ながら疑問を持つことがたびたびありました。また当時住んでいた場所が学区である公立中学校の評判はよくありませんでした。

6年生の後半になると、男子は2つのコースに分かれます。最難関校を狙う上位コースと、中堅校を狙う下位コースです。

私は後者に入ることを決めました。それは同時に、灘をはじめとする最難関校を目指すことを諦めるという選択でもありました。

当時関西では灘をはじめとする多くの中学校が同じ日に試験日を設定していたため、受験生はそのうちの1校しか選べませんでした。

私は、受験戦争に敗れたのでした。
私にとって灘は、あまりにも遠すぎる目標だったのです。

ただそのクラスに入ったおかげで、プレッシャーや劣等感から解放されたのは事実です。

そして勉強を続けて第一志望に無事合格し、入学しました。



中高生時代

鉄緑会との出会い

中1になってすぐ、鉄緑会の大阪校に入りました。

今でこそ鉄緑会は難関校を目指す塾として有名ですが、当時はまだインターネットから塾の情報を得ることができなかった時代です。母が鉄緑会のパンフレットを見て説明会に行ったのをきっかけに試しに入会したという感じで、英語と数学のクラスに通いました。

結果的にこの選択が、その後の私の人生を変えることになりました。

入会時に国語と算数のテストを受け、その成績に基づいてクラスが決まりました。英語は上から2番目のクラスで、数学は最上位クラスになりました。

中1の時の英語のクラスでは毎週10個程度の例文を暗記しました。英語を本格的にやるのは初めてで要領がわからず、最初は点数が悪かったです。単語の暗記も苦手で、1つの単語を書きまくって覚えるという記憶法をやっていましたが、それでも覚えられず苦労しました。

そんな中、英語の綴りと発音には規則性があると、おぼろげながら気づくようになりました。それからは規則を意識しながら単語のスペルを覚えるようにしました。すると成績が安定するようになり、しばらくして最上位クラスに上がれました。

ちなみにその規則を体系化したものを「フォニックス」と呼ぶことを知ったのは、大学を卒業した後でした。誰からも習ったことがなかったからです。

数学についても毎週宿題をやってテストを受けるというサイクルを続けました。中学受験の算数ではトップクラスの人たちにかないませんでしたが、数学では基礎を固めて問題演習をすれば、その延長で難問も解けるという印象を持ちました。突飛な発想力を要するものではなく、自分には算数よりも数学の方が合っていると感じました。



開眼

英語では文法も必要ですが、語彙力が高いほど良い成績が取れると感じました。だから鉄緑会でも学校でも積極的に英単語を覚えました。単語のスペルを覚える自分なりの方法を確立できたのも要因だと思います(方法についてはいずれ記事にしたいと思います)。

こうして英語が得意科目となったことが自信につながりました。テストで難しい単語を含む英文を訳せると、もっと語彙を増やしたくなりました。

数学については鉄緑会をベースとして勉強しましたが、高2から「大学への数学」の学力コンテストを解くようになりました。時間は無制限で、毎回6問の問題を解きます。1つの問題をじっくり考えて解くのはパズルのような楽しさがあり、解法をひらめいて喜びを感じたこともあります。
そうなると難問に挑戦することを恐れなくなり、さらに実力をつけたくなりました。

勉強は大変でしたが中学受験の時とは違い、「やらされている」とか「苦しい」と思うことはありませんでした。成績が上がることでモチベーションが上がり、好循環が生まれたのだと思います。

勉強とは自分が成長して過去の自分を超えていくものであることに、私は気付いたのでした。中学受験の時、テストの点数に一喜一憂し、他人と成績や順位を比較しては劣等感に苛まれ、勉強が嫌いだった自分はもういませんでした。

そして数学、英語とも大学受験まで最上位クラスをキ-プできました。また鉄緑会では数Ⅲ・C、物理、化学も受講しました。

医師を志し、理三受験を決意

中高生になると、将来の進路についても考えるようになります。きっかけは忘れましたが、小学生の頃から漠然と医師という仕事に憧れを持っていました。直接人を救える仕事で、人の役に立つことが実感ができ、やりがいがあると感じていました。

だから医学部を志望しましたが、難関大学を目指したいという気持ちはありませんでした。

関西だったので、医師を目指す鉄緑会の同級生には京大医学部や阪大医学部を狙っている人が多く、理三を目指す人は少数派でした。

また高2になると大学の過去問を見る機会がありますが、東大よりも京大の入試問題の方が自分に合っていると思いました。例えば英語に関しては、東大の自由英作文は苦手で、京大の格調高い英文和訳や英作文の方が点が取れる気がしていました。
だからこの頃は京大医学部を考えていました。

ただ自分が東京出身であることや、東大は日本最高の大学だと思っていたことから、理三に憧れがないわけではありませんでした。

迷いながら過ごしていましたが、高3の時に受けた大手予備校の東大模試では理三A判定を取ることができました。
十分狙える位置にいたため、理三を受けることを決め、勉強を続けました。

臆病者なので、A判定でなかったら京大医学部を受けていたと思います…

やがて受験の日が来ました。

その前の10年は年度により数学の難易度のばらつきが大きかったため、数学で失敗しないか不安でした。ただ数学で失敗しなければ合格できる気がしていました。

幸い1日目の数学では実力を出し切れたと感じ、後悔せず試験を終えられました。全てが終了した時には合格したと思いましたが、発表までは不安でした。

合格発表を見に行き掲示板に自分の受験番号を見つけ、胸をなでおろしました。

こうして理三に合格した私は、大学入学を契機に東京に引越しました。



大学時代

今思えば、大学時代を無駄に費やしてしまったと後悔しています。

いくつかの趣味もやりましたが、ネットサーフィン(今や死語)にはまっていました。TVゲームに明け暮れていた時期もあります。バイトもほとんどやりませんでした。
ある鉄門(東大医学部)の部活に入りましたが、参加頻度は低めでした。

留年はしませんでしたが成績は平凡な学生でした。大学受験で必要なのは論理力や処理能力が中心ですが、医学部で必要なのは暗記力であり、私が苦手とする分野でした。試験科目も多く、覚えなければいけない量も多かったです。ただ記憶術を勉強し、自分なりにアレンジして勉強の助けとしました。

そして医師国家試験に合格し、晴れて卒業し研修医となりました。

卒業後から現在

研修医時代は大学病院と市中病院で働きました。最近は研修医の勤務時間に制限が設けられていますが、当時は制限がありませんでした。

大学病院では雑用も多く、毎日22時頃まで病棟に残って仕事をしており、受け持ち患者の病状が悪化した際は深夜に及ぶこともありました。休日も研修医が病棟で患者を診るのが当たり前でした。

市中病院では雑用は少ないものの、自分で患者診療に責任を持つ部分が増え、プレッシャーを感じることもありました。

研修医を終えた後にある科に入局し、大学院に入学しました。

大学院時代は研究に専念し、臨床とは違う苦労が多くありましたが、無事大学院を卒業し、博士号を取得しました。

現在私は大学にいます。入院患者や外来患者の診察をしたり、後進の指導をしたり、研究を行ったりしています。

プライベートでは、数年前に結婚しました。

その後長男が生まれ、2020年11月現在1歳です。

家では少しでも子供と遊ぶ時間を作るよう心がけています。子育てについては試行錯誤をしながら日々勉強しています。

子供がかわいすぎて、目に入れても痛くないです。


終わりに

振り返ってみると私は「遅咲き」の人間だったのかもしれません。

理三に入る人の多くは灘、開成、桜蔭などの難関校出身で、中学受験の時点で頭角を表します。
一方私は中堅校出身で、成績を大きく伸ばしたのは中学、高校時代でした。そんな私なりの勉強のノウハウも読者の皆さんにお伝えできればと思います。

時は流れ、私も男の子の親になりました。子育てにおいても自分の経験を生かして正しく導いてやりたいと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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ABOUT ME
カガミル
理三→東大医学部卒の医師です。 2019年生まれの息子の子育て中。 子育て、教育、東大医学部/医療、投資について発信します。

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